ここに尾張藩(おわりはん)の蔵(くら)がつくられたのは、名古屋城(なごやじょう)がつくられたのと同じころです。この場所につくったのは、堀川を使って船でたくさんの米を一度に運べるからです。
清洲(きよす)には福島正則(ふくしままさのり)がとの様だった時に建てた、長さ55mもの大きな蔵が3つあり、「三蔵(みつくら)」とよばれていました。この蔵を納屋橋(なやばし)のところまで運んできて、その他にもたくさんの新しい蔵を建てました。たくさんの蔵があったのですが、清洲のころの名前のまま名古屋でも「三蔵」とよばれました。
今でも、天王崎橋(てんのうざきばし)を東西に通る道が「三蔵通」(みつくらどおり)、朝日新聞社西側の南北の道が「竪三蔵通」(たてみつくらどおり)という名前なのは、昔、尾張藩の蔵があったころのなごりです。
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約250年もの長いあいだ、藩(はん)の蔵がおかれていましたが、明治になると税金はお金ではらうようになり、米を保管する蔵はいらなくなりました。このため、明治6年(1873)に、それまで広小路本町の東南角にあった牢屋(ろうや)がこの場所に移されて、懲役(ちょうえき)場と名前も変えられました。
その後、明治39年(1906)に設立された東海倉庫株式会社が、堀川を利用して船で物を運ぶのに便利なこの土地を買い取り、倉庫として使うようになりました。
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「懲役場」のころ
『名古屋并熱田全図』明治11年(1878)発行 |