年貢を保管した蔵


 江戸時代はおもに米で年貢(ねんぐ 税金)をはらっていました。この米を保管するには、大きな蔵(くら)がいります。尾張藩(おわりはん)の各地から集められた米は、堀川をさかのぼり、ここ納屋橋(なやばし)のたもとにあった藩(はん)の蔵に保管されました。



 この絵は江戸時代の終わりごろにかかれたものです。
 手前が堀川で、米を運んできた船がたくさんいます。船から60kgもある米俵(こめだわら)をかついで運んでおり、川岸の広場には米が山積みになっています。米を調べたり、俵(たわら)につめなおしたりしている人々がいます。奥のほうにはたくさんの蔵があり、こぼれた米をねらって屋根では鳥がすきをうかがっています。活気あふれる蔵の様子がいきいきとえがかれています。

 この蔵は税金を保管しておく大きな金庫のようなものです。藩ではこの米を売っていろいろな費用にしたり、さむらいに給料としてわたしたりしました。

向こう岸の建物が年貢を保管した藩の蔵。左はしに納屋橋があります。


蔵のおいたちとその後

 
 ここに尾張藩(おわりはん)の蔵(くら)がつくられたのは、名古屋城(なごやじょう)がつくられたのと同じころです。この場所につくったのは、堀川を使って船でたくさんの米を一度に運べるからです。
 清洲(きよす)には福島正則(ふくしままさのり)がとの様だった時に建てた、長さ55mもの大きな蔵が3つあり、「三蔵(みつくら)」とよばれていました。この蔵を納屋橋(なやばし)のところまで運んできて、その他にもたくさんの新しい蔵を建てました。たくさんの蔵があったのですが、清洲のころの名前のまま名古屋でも「三蔵」とよばれました。
 今でも、天王崎橋(てんのうざきばし)を東西に通る道が「三蔵通」(みつくらどおり)、朝日新聞社西側の南北の道が「竪三蔵通」(たてみつくらどおり)という名前なのは、昔、尾張藩の蔵があったころのなごりです。








 約250年もの長いあいだ、藩(はん)の蔵がおかれていましたが、明治になると税金はお金ではらうようになり、米を保管する蔵はいらなくなりました。このため、明治6年(1873)に、それまで広小路本町の東南角にあった牢屋(ろうや)がこの場所に移されて、懲役(ちょうえき)場と名前も変えられました。
 その後、明治39年(1906)に設立された東海倉庫株式会社が、堀川を利用して船で物を運ぶのに便利なこの土地を買い取り、倉庫として使うようになりました。
「懲役場」のころ
『名古屋并熱田全図』明治11年(1878)発行


1万トンの米が入る大きな蔵(くら)
尾張藩(おわりはん)は69万石(領地からとれるお米の量で、藩の大きさをあらわす)で、全国でも数少ない非常に大きな藩でした。このため、年貢(ねんぐ、税金)としておさめられる米もたくさんになります。
 多くの米を保管するには大きな蔵(くら)がいります。このため納屋橋(なやばし)のたもとにあった藩(はん)の蔵はすごく大きなものでした。
蔵のたっている土地は、南北が約260m、東西が北側(広小路側)は約70m、南側は約110mという広い土地で、まわりは高いへいでかこまれていました。中には26の蔵があり、その出入り口はあわせて83か所もありました。蔵には7万3000石の米を保管できたそうですが、これは米を入れる俵(たわら)の数では約18万個、重さでは1万トンにもなります。
 元和5年(1619)からは、蔵の管理をする御蔵奉行(おくらぶぎょう)がおかれていました。

  (CD 堀川ミュージアムより)



       『天明年間名古屋市中支配分図』より